東京高等裁判所 昭和52年(う)833号 判決 1980年6月10日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役八年に処する。
原審における未決勾留日数中九〇〇日を右刑に算入する。
原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(目次)
第一 訴訟手続の法令違反の主張(控訴趣意書第一章第一の四ないし六)について
第二 事実誤認の主張(控訴趣意書第一章第一の一ないし三及び七)について
一 三月一三日及び一四日の共謀の成否について
1 三月一三日における協議の存否
(一) 被告人の行動と一三日夜の協議の可能性
(二) 協議の実在とその日時(一二日夜の協議)
(三) 一三日昼間の協議
2 三月一四日における協議の存否
3 結び
二 その余の論点について
三 結論
第三 量刑不当の主張(控訴趣意書第一章第二)について
本件控訴の趣意は、弁護人渕上貫之、同堀川日出輝、同堀川末子、同藤森洋連名提出の控訴趣意書(ただし、当審第一回公判において、弁護人らは、昭和五四年二月一三日付釈明事項書一、二及び三の(一)のとおり釈明した。)に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
第一 訴訟手続の法令違反の主張(控訴趣意書第一章第一の四ないし六)について
所論は、要するに、原判決が「被告人および塩見孝也等の検察官に対する供述調書の証拠能力について」と題する部分において、被告人の検察官に対する供述調書一四通及び塩見孝也(三通)、山田敏夫(四通)、高原浩之、物江克男(二通)、佐藤公彦、上原敦男(六通)、川島宏並びに森清高の検察官に対する各供述調書謄本(以下、供述調書謄本については、すべて「謄本」を省略する。)の証拠能力を争う原審弁護人の主張を排斥した判断を論難し、これらの不適法な調書を事実認定の基礎として被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである(所論中、第一の四の(二)の(3)の末尾には、被告人の検察官に対する各供述調書につき、「証拠価値のないもの」との文言が見られるけれども、これに先き立つて「任意性に疑いがあり、証拠能力がないか、又は」とあること及び所論の具体的内容はいずれも偽計、利益誘導、強制等の存在をいうものであることに照らし、所論は、結局、これら調書の任意性を争い、その証拠能力の欠如を主張するに帰するものと解される。なお、これらの調書は、後記第二において説示するところにより明らかなとおり、当審説示に添う限度において十分な証明力を有すると認められることを念のため付言する。)。
そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、原判決が、その説示する論拠に基づき、所論各供述調書は証拠能力を有するものであるとした判断は、まことに正当であつて肯認するに足り、これらを本件犯罪事実認定の用に供した原判決に所論の瑕疵はなんら存しない。所論の縷述するところは、結局、独自の見解に立脚し、もしくは証拠を正当に評価しないものであつて、採用することはできない。
なお、所論は、山田敏夫の検察官に対する昭和四五年五月二五日付供述調書及びそれ以降の供述調書の任意性に関し、これらは検察官の不起訴の約束に基づくものである旨特に強調するので、この点についての判断を付加する。
この点の所論は、要するに、昭和四五年五月二五日午前一〇時過ぎころ、山田敏夫の父当己雄が、警視庁で拘束中の敏夫と接見中、検察官から面会を求められ、その許に赴いたところ、敏夫は不起訴にする旨の約束を得たので、ただちに敏夫のところに戻り、その旨を伝えた結果、同人が自白し、同人の検察官に対する同日付供述調書が作成されたものであるから、同日以降の同人の検察官に対する各供述調書は任意性を有しない、というのである。
そこで、関係証拠を検討すると、所論の依拠する原審第四七回公判における原審証人山田当己雄の供述(以下、当公判廷における供述のほか、公判調書あるいは供述調書における供述記載をも単に「供述」とし、さらに原審または当審証人の「供述」については、「証言」ということがある。)は、大要、次のとおりである。すなわち、「息子敏夫が警視庁に入つているころ、面会のため上京した際、検察官に呼ばれて一回だけ検察官に会つたことがある。田舎者でどこも一緒に見えるから、東京地方検察庁であつたかどうかわからない。息子は、ハイジヤツクのあつた当時、どうしていたかなどを聞かれて返答した程度であるが、話の中で起訴しないとか起訴猶予になるとかいうことを言われ、一番心配していたことであるので安心し、翌日、息子にそのことを知らせて、正直に話しなさいと言つた。自分が息子のことで検察官と会い、調書を取られたのは、その時一度だけである。午後二時前後であつた。ハイジヤツクとか、学生事件とか、特定の事件についての話ではなかつた。」というのである。
ところで、山田敏夫に対して右のように伝えた日について、当己雄は、まず、右に摘記したとおり、検察官と話した日の「翌日」と述べ、間もなく、「その日か翌日」とも述べたあと、あらためて「面会は一日一回しか出来ないので、検察官と話した日に一度面会しているから、その翌日のはずである。」と供述し、また、「日にちのことは全くおぼえていない。」とも述べ、さらに「警視庁で敏夫と会つたのは二五日の午前と二七日の午後の二度だけでしよう。」との問に対し、「次の次の日に息子と会つていることになるから、検事さんに会つたのは最初の日ということになりますか……自信ないですね。」と答え、あるいは、「息子に会うための上京で、一日一回は面会に行くので、最初の日ではなく、二日目に検事さんに呼ばれて……ということもあるわけだが、はつきりしない。」とも述べ、いささか明確を欠くのであるが、当初記憶のまま「翌日」と述べたのが正しく、尋問が繰り返されたため記憶に混乱が生じたのではないかと考えられ、少なくとも、所論のように検察官の話を聞いて即刻敏夫に伝えたとの趣旨はまつたく窺われない。また、当己雄は、「息子と会つている時、警視庁の係の人が検事さんが会いたいといつているといつたので会つた。」、「その時警視庁の建物の外へ出た記憶がない。」、「息子と会つているときに呼ばれたことは、はつきり記憶している。」などとも供述しているが、この供述が、所論のように、敏夫との接見を中断し、検察官に会つてのち、接見を再開したことを意味するものとは考えられない。原審証人山田敏夫の原審第一九回公判におけるこの点に関する供述も、単に、取調べを受けている時期に、両親から検事がハイジヤツクでは起訴しないと言つているというようなことを聞いたというのみで、父当己雄が接見を中断して立ち去つたのち、間もなく戻つて来て検察官の言葉を伝えたというような部分はまつたくないのである。そのほか、二五日に当己雄が敏夫と接見したのは午前一〇時から一〇時三〇分までであることが接見記録上明確であるから、当己雄と検察官との所論のような面会が二五日にあつたとすれば、それは、この時間帯でなければならないけれども、そうすると、右に摘記したとおり、その面会は午後二時前後であつたとする当己雄の証言とは抵触することとなるのである。
これに対して、原審で取調べられた山田当己雄の検察官に対する供述調書は、昭和四五年五月二六日付で東京地方検察庁において作成されているところ、その内容は敏夫の本件発生当時の動静を中心としているから、これが当己雄のいう検察官と会つた際の調書であることは明らかであつて、「検察官と会つたのは一度だけで、その時に調書をとられた」旨の当己雄の証言に照らし、同人が検察官に会つた日は、二六日であり、その場所は東京地方検察庁であつたと認めざるをえず、従つて、「検察官に会う時、警視庁の建物の外に出た記憶がない。」との同人の供述は、「どこも一緒に見える。」との供述をも考えあわせ、措信し難いのである。
なお、所論は、当己雄の証言中に、「検事に呼ばれたときには他に誰か居りましたか。」との弁護人の問に対し、「いいえ、私一人でした。」と答えた部分のあることを指摘し、これは、検察官が二五日に検察事務官をも遠ざけてひそかに当己雄に会つた証左であるとするけれども、前後の関係からみて、右の答は、「当時同行していた妻とは別行動となり、他に連れもなかつた。」との意味に解すべきであつて、所論は右供述の趣旨を正解しないものである。そのことは、当己雄が、検察官の反対尋問に対し、「検察官の机と事務官の机がある部屋で、事務官も立ち会つているところで調べを受け、調書をとられたもので、そのときの話の中で、起訴しないとか、起訴猶予になるとかいつた趣旨のことばが出たことをはつきり記憶している。」旨供述している事実、すなわち、「不起訴の約束」は、検察官と二人きりの場においてなされたのではなく、検察事務官立会のもとになされたというのが当己雄の証言するところであることからも明らかである。
しかも、元来、当己雄は、息子の逮捕、勾留で動転していたと思われる昭和四五年五月当時の事柄につき、五年半余を経過した昭和五〇年一二月一一日の原審第四七回公判において証言したものであり、右に摘記したところからも窺われるとおり、その記憶にかなりの混乱、変容があるにとどまらず、当時の観察、認識自体にも正確を欠く点が少なくないことが認められ、その証言には、それほど証明力がないものとしなければならない。
結局、上来説示したところのほか、原判決中この点に関する判示にあらわれた諸点をも考えあわせれば、当己雄が検察官に会つたのは前記調書の作成された二六日であり、検察官と会つた後に敏夫と接見したのは、その翌日である二七日と認められるのである。従つて、これと同一の見解に立ち、敏夫が二五日には既に相当詳細な自供をしており、これより先の二二日にも概括的な自供をしていることにかんがみ、当時、検察官において、ことさら不起訴の約束までして自供を得ようとする必要性はないこと及び検察官がまだ同人の処分を決しうる状況にあつたとは認められないことなどから、検察官が不起訴の約束をしたとの当己雄の供述を措信せず、右約束の存在を根拠に山田敏夫の検察官に対する供述調書の証拠能力を争う弁護人の主張を斥けた原判決の判断は十分に支持することができ、所論は採用のかぎりでない。
論旨は理由がない。
第二 事実誤認の主張(控訴趣意書第一章第一の一ないし三及び七)について
所論は、すこぶる多岐にわたるけれども、要するに、被告人を本件犯行の共謀共同正犯であるとした原判決の事実認定を争い、被告人と原判示共犯者らとの間に共謀は存在せず、本件犯行は、党派の首領塩見孝也の逮捕という予期しない出来事に焦慮した田宮高麿らが、急遽、独自に具体的計画を立てて実行したもので、被告人はこれと無関係であり、かりになんらかの刑責を負うものとした場合でも、たかだか強盗予備の程度にとどまるのに、被告人と原判示の者らとの間に本件犯行に関する共謀の成立を認め、よつて被告人を本件犯行の共謀共同正犯とし、有罪の認定をした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。
ところで、所論は、原判決が、「本件犯行に至る経緯」として説示する諸事項につき種々論難を加える点もあるけれども、その最大の眼目とするところは、原判示にかかる昭和四五年三月一三日及び一四日の両日にわたる被告人と塩見、田宮らとの間の協議の存在を否定することにあると解されるので、まず、この点について判断し、ついでその余の論点について説示することとする。
(以下において、昭和四五年三月中の日にちについては、年または年月の記載を省略することがある。)
一 三月一三日及び一四日の共謀の成否について
この点の所論の骨子は、原判決につき、(1)「罪となるべき事実」中、被告人が、昭和四五年三月一三日及び翌一四日、東京都豊島区駒込所在の喫茶店「白鳥」等において、塩見孝也、田宮高麿及び小西隆裕と協議して、同年秋の共産主義者同盟赤軍派による前段階武装蜂起のため国外に国際根拠地を建設する目的で、同派の他の実行要員とともに、日本刀や爆弾等により乗務員、乗客を脅迫してロープ等で縛り、旅客機を強取したうえ、これらの者を実力支配下においたまま人質として連行し、朝鮮民主主義人民共和国に脱出する旨の共謀をなし、さらに、順次高原浩之ほか七名と共謀のうえ、この共謀に基づき、同月三一日以降翌四月三日にかけて、被告人、塩見及び高原を除く九名が、本件犯行(強盗致傷、国外移転目的略取、国外移送、監禁)を実行したとの認定のほか、(2)「本件犯行に至る経緯」中、右一三、一四両日における被告人の行動及び共同謀議の状況に関する判示並びに(3)「証拠の標目」欄末尾記載の三月一三日夜における被告人の所よし子方訪問を否定する判断(以下、右認定、判示及び判断を特に区別することなく「原判示」という。)を論難し、被告人は、本件犯行発生に先き立つこと一六日の同年三月一五日に、駒込の路上を塩見と通行中、たまたま別件により逮捕され、以後事件発生の際まで引き続き身柄拘束のまま取調を受けていたのであるから、この間において本件犯行に関する共謀をすることができなかつたことは明白であるばかりでなく、(一)右(1)及び(2)にいうような一三、一四両日の共謀を認めるに足りる証拠はなく、特に、(二)右(3)の判断は誤りであつて、三月一三日夜、被告人が所よし子方を訪問していたことは事実であり、従つて、被告人が、原判示のような協議、共謀をする機会はなかつた、というのである。
そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、原判決挙示の各証拠によつて、原判示の経緯のもとに、田宮、小西ほか七名の本件実行行為者らが、塩見、高原と共謀のうえ原判示犯行に及んだことは十分に認められるところ、被告人がその実行行為に加わつていないこと及び三月一五日以降身柄を拘束されていたことは明らかであるから、被告人が、右犯行について、原判示のような刑事事件を負うか否かは、右身柄拘束に先き立ち、被告人と右の者らとの間に原判示のような共謀が成立していたか否かにかかるわけである。
原判決は、この点に関し、所論のとおり、(一)被告人は、三月一三日及び一四日の両日にかけて、塩見、田宮、小西と協議して本件犯行を共謀し、さらに高原及びその余の実行行為者らとも順次共謀した旨の判示をし、特に、(二)三月一三日夜の被告人の行動については、同日午後七時すぎには駒込の喫茶店を出て中野の所よし子方に赴き、同所で時を過ごしたのち、深夜にいたつて新宿の簡易旅館に投宿した旨の被告人の原審公判廷における供述及びこれと符合する原審証人浦上よし子(旧姓所)並びに同安藤参三の各供述は措信できない旨の判断をも示している。
しかるに、右(一)の判示は、文言上、協議の行われた日を三月一三日及び一四日の両日に限定するものと解され、かつ、後記のとおり、一三日の協議は同日夜に行われたとする趣旨をも含むと考えられるところ、関係証拠上、被告人が、一三日夜、所よし子方を訪問した事実を否定し難いから、右(二)の判示は肯認することができず、従つてまた、この事実と抵触する右(一)の判示もそのままには維持することはできないのであつて、原判決には、右の点において事実誤認があるものとしなければならない。
しかしながら、関係証拠をさらにしさいに検討すると、原判示にかかる協議は、実は、被告人が、小西からの連絡により、関西における活動を切りあげて帰京した三月一二日当夜を含め、同月一四日ころまでの間に行われたものであることを認めるに足り、前記所よし子方訪問の事実はこのことと矛盾するものでないうえ、協議の場所、当事者及び内容に関する原判示は正当であり、かつ、右協議をもつて本件犯行についての共謀と評価し、よつて被告人を本件犯行の共謀共同正犯と認定した原判断は十分に肯認でき、本件審理の経過に照らし、右のような日時の差異が犯罪事実の同一性を失わせるものでもないから、結局、原判決の右事実誤認は判決に影響を及ぼすものでないことが明らかである。
以下、所論に即して説明を加える。
1 三月一三日における協議の存否
(一) 被告人の行動と一三日夜の協議の可能性
(1) 所論(第一の三の(九)及び(一三))は、三月一三日における被告人の行動につき、大要、つぎのように主張し、当日、原判示のような協議はありえなかつた、という。すなわち、被告人は、同日朝一〇時ころ、前夜宿泊した駒込の原判示ホテル「愛川」を出て、田宮と共に同じく駒込の原判示喫茶店「ルノアール」に行き、約二時間を過ごし、そこで父治雄に対する送金依頼の手紙を書き、投函した。その間、塩見が右「ルノアール」に来たことがあるが、ちよつと顔を出した程度で、これといつた話もなかつた。ノートやメモを見せられたようなこともない。そのあと、被告人は、かねて執筆中の論文原稿を書き続けるため、一人で他の喫茶店に行き、夜七時過ぎまで新聞を読んだり原稿を書いたりし、その間、岡本武及び吉田金太郎と僅かな時間雑談したことはあるが、この日は原判示喫茶店「白鳥」には行つておらず、また原判示のように「白鳥」で岡本、吉田及び柴田泰弘に注意事項を伝達したこともない。そして、午後七時過ぎころ、その喫茶店を出て、知人所よし子が浦上廣徳と同棲している中野のアパートを午後七時三〇分ころ訪れ、旧知の安藤参三も居合わせたところから話し込み、同人が午後一〇時過ぎころ辞去したのちも、浦上が帰宅すれば一泊させてもらうつもりで、下り最終電車が東中野に到着するころである翌一四日午前一時過ぎまで待つてみたが、結局同人は帰らず、所よし子から現金五〇〇円を借りて宿を探し、新宿の簡易旅館に宿泊した、というのである。
(2) これに対し、原判示は、その大綱において、右所論と必ずしも相反するものでなく、ただ、所よし子方訪問の事実を否定するほか、塩見が被告人に実行要員として面接に合格した者に対する注意事項の伝達を依頼したかどうか、被告人が「白鳥」で岡本及び吉田に対して注意事項を伝達したかどうか、また、被告人が柴田に会い、同様の伝達をしたかどうかにつき、これを肯定し、かつ、本件犯行計画に関する協議において、塩見がノートを示したとする点において異るのみである。
(3) ところで、原判決は、右一三日における協議が、このような被告人の行動のうち、どの時点で行われたかについては明確な判断を示していない。
しかし、判文とその挙示する証拠とを対比すると、原判決が依拠した基本的証拠は、被告人の検察官に対する供述調書(一四通)中関係部分であることが明らかで、これによれば、被告人の供述は、当初、特に日時の点に関して不明確な点を含んでいたものの、最終的には、三月一三日午後九時から一一時ころにかけて、駒込の喫茶店「白鳥」で、塩見から、計画を記載したノートを示しながら、航空機をハイジヤツクして北朝鮮に赴く旨の詳細な説明を受け、気は進まないながらこれに賛同し、実行に参加する決意をしたこと、その際、田宮、小西も在席していたこと、その他、要員の選定と訓練、スパイの摘発、機内制圧の方法、決行までの任務分担、日本刀、爆弾、ロープの準備等について協議したことなどを内容とするものであつて、よく原判示にそい、また、その実質上の内容をなすものと解されるのである。
これに対し、塩見の検察官に対する五月八日付供述調書には、三月一二、三日ころ、駒込の喫茶店「白鳥」または「田園」で、前田にノートを見せて計画を説明した旨の供述記載があつて、被告人の右供述を裏付けるもののごとくであるほか、三月中旬ころ、塩見が「白鳥」に、その仲間らしい者二、三名とともに、夜一二時を過ぎるころまで、長時間にわたり留つていたことを窺わせる元同店従業員中島孝志の検察官に対する供述調書も存する。
従つて、原判決が、これらの証拠を挙示して、前示のとおり、一三日の共謀を認定したことは肯認できるかのようである。なお、右協議に加つたとされる田宮及び小西は、本件で国外に逃亡して取調べられておらず、その余の赤軍派関係者で取調べの対象となつた者は、いずれも三月一三日には東京以外の地におり、あるいは都内にいても駒込付近には来ておらず、従つて協議を目撃し、あるいはこれに関与する機会のなかつたことが認められ、これらの者の供述中に、右協議に関連するようなものはいつさい存しない。
(4) しかるに、被告人は、原審及び当審の各公判廷において、一三日に塩見、田宮、小西との協議をしたことはなく、ことに夕方七時過ぎには駒込を出て、中野の所よし子方に赴き、真夜中を過ぎて新宿に泊つた旨、所論にそう供述を繰返し、かつ、所よし子方訪問の目的は、かねて中央大学新聞責任者で同女と同棲していた浦上廣徳の依頼により執筆中であつた論文原稿が完成したので、これを同人に届け、原稿料も得ようとするにあつたが、終電車の時刻を過ぎても同人が帰らず、やむなく所よし子から五〇〇円を借用して新宿へ行つたものであり、捜査当時、右訪問の事実を述べず、神田の中央大学新聞の事務所に原稿を持参し、女子事務員から五〇〇円を借りた、などの供述をしたのは、このことがそれほど重要な意味を持つとは考えていなかつたところから、所よし子の名を出すことを避け、同女のイメージから思いついた架空の女子事務員に仮託したものであると弁解する。そして、もしこの所よし子方訪問が真実であるならば、前記のような一三日午後九時から一一時にかけての「白鳥」における協議は、時間的にありえないこととなるのは所論のとおりである。
(5) 塩見孝也もまた、原審公判廷で証言して、一三日には、午後六時以後、巣鴨に赴き新左翼関係の外国文献を飜訳してくれる部外者と同一〇時ころまで面会しており、駒込にはいなかつたことを強調し、さらに、被告人とは、同日昼間に顔を合わせただけで、夜は会つていないし、田宮、小西とは終日会つておらず、もとより塩見、田宮、小西、被告人の四名が一堂に会したようなことはない旨、被告人の右供述にそう供述をしている。しかも、翌一四日については時に言葉をにごすにもかかわらず、一三日における右の諸点についてはすこぶる断定的である。
当審で取調べた大西一夫に対する東京地方裁判所刑事第五部の昭和五二年三月三日付証人尋問調書(写)には、同人が一五日の塩見逮捕の二日前くらいに巣鴨の喫茶店で塩見に会い、路線問題について意見を聴取された旨の供述記載があるけれども、その日が一三日であることは確実とはいえず、時刻についても明確でなく、具体的な会見場所に関する供述もあいまいであつて、真に巣鴨で会つたかどうかさえ疑わしく、しかも同人は赤軍派の一員であり、部外者と会つていたとする塩見の供述とは符合せず、用件の点もくいちがつているから、これをもつて塩見の右証言を支持するものとはいえず、他に、右証言を直接に裏付けるべき証拠は存しない。
しかしながら、塩見の右証言の内容には格別不合理、不自然な点はなく、同人の検察官に対する前記五月八日付供述調書における「被告人にノートを見せて計画を説明した」との記載も、その日を一三日と限定することなく、一二、三日ころとしているから、右証言と全く相容れないものではない。そのほか、同人の本件における証言態度を通観するに、本件犯行と直接の関係があると思料する事項について、全く黙秘し、あるいは外形事実のみを認め、その趣旨、内容を否定するなどのことはあつても、事実経過の大筋はおおむね率直に供述しており、ことさらに不必要な虚偽を述べ、平然として虚構を告げるような無責任なものではないことが看取でき、一定の限界は存するものの、その証言には信用してよい部分が少なくないことに照らすと、右供述を一概に排斥することは困難である。もつとも、田中美代子の検察官に対する供述調書には、三月一三日、塩見と認められる人物が同女の勤務先である駒込の原判示喫茶店「カトレア」で長時間を過ごし、午後一〇時過ぎまでいたようである旨の供述記載があるけれども、時刻の点については確実な根拠があるわけではなく、同女自身、はつきりしない旨を付け加えているのであつて、同調書をもつて塩見の右証言をくつがえすことはできない。
(6) さらに、当審証人川島宏は、三月一三日、自分のいた福島に小西が来て、当夜同地に一泊し、翌一四日夜自分と共に帰京し、午後一〇時三〇分ころ赤羽で別れた旨供述し、あわせて、自分は小西と会う機会がもともと少なく、帰京の翌日、塩見と前田が逮捕されたこともあつて、このことをよく記憶しているとも述べるのであつて、この供述は、一三日に小西と駒込で会つていない旨の被告人及び塩見の各公判廷供述を裏付けるわけであるが、その証明力を否定すべき根拠は見当たらない。もつとも、被告人の検察官に対する昭和四五年五月九日付供述調書第四項及び一三日付供述調書第二三項には、三月一四日夕刻、被告人が塩見及び田宮と共に「白鳥」にいたところ、小西が入つて来て、「今日海岸で爆弾実験をして来た。川島は福島に行つている。」などと言つた旨の供述記載があり、このことは、同日、小西が川島と同行して福島から帰京したとする右川島証言とは必ずしも整合しないかのごとくでもあるけれども、少なくとも、同証言中、一三日には小西は東京に居なかつたとする点とは矛盾するものではない。
(7) 所よし子方訪問については、原判決も判示するとおり、被告人の供述に照応する原審証人浦上よし子(旧姓所)、同安藤参三の各供述が存するところ、原判決はこれを措信しなかつたのである。
しかるに、当審証人伊藤光渕は、昭和四五年三月一三日夜九時過ぎころ、少なくともさほど遅くない時刻に、当時杉並区松ノ木に居住していた証人方に、安藤参三が、東中野に住む女友達の所よし子の許からの帰りと言つて訪ねて来て一泊したが、その際、雑談の中で、同夜前田祐一に出会つたことを洩らした旨、被告人、所、安藤の各供述に添う証言をし、かつ、このことは、それが昭和四五年三月一四日岐阜における友人の結婚式に参列した前日の出来事であり、また安藤が目を赤くしていたことなどもあつて、特に印象に残つており、被告人の照会によつて記憶がよみがえつたものである、と述べるのであるが、その供述内容に不自然、不合理な点はなく、当審で取調べた「マーケテイングダイアリ70」と題する手帳、昭和四五年三月一四日の伊藤、小島両家結婚披露宴御席表(岐阜グランドホテル作成)及び同披露宴で撮影された証人を含む写真(当庁昭和五二年押第三一六号の三八ないし四〇)によつて窺われる事実とも符合するほか、同人の供述及び当審における被告人の供述によつて知られる、被告人が同人と接触を得た経緯にもなんら作為の跡が見受けられないことなどに照らし、同人の右証言は措信するに足りるものと認められ、ひいて、原審証人浦上よし子、同安藤参三の各供述もまた信用することが相当であると解されるのである。
さらに、当審証人浦上廣徳の供述のほか、当審で取調べた中央大学総務部長作成の昭和五三年一月一二日付回答書、同大学理事長室長作成の同年一二月一五日付回答書及び中央大学新聞第九〇八号(同号の二五)によれば、昭和四五年三月一三日当時、中央大学校舎二号館にあつた同大学学友会所属「新聞学会」の会室は、同会員によつて使用されておらず、かつ、入学試験実施のため、右建物への立入りは大学当局によつて厳しく規制されていたので、当夜一一時ころ、学外者が同会室に立ち入ることは、正規の方法では不可能であつたこと、そのころ、右「新聞学会」発行にかかる中央大学新聞の事務は、大学構外の貸事務所で処理されていたこと、同年二月ころ、同証人は被告人に右新聞への寄稿を依頼したが、事務所の所在は教えることなく、原稿の受け渡しは同証人の自宅で行うはずであつたこと、「新聞学会」には、昭和四四年夏以降、女子事務員はいなかつたこと、被告人の執筆した論文は、昭和四五年四月一四日付中央大学新聞第九〇八号に掲載されたことなどが認められ、これらの事実もまた、被告人の弁解及び原審証人浦上よし子の供述を裏付けるものということができる。
そのほか、被告人が、捜査当時、一三日夜の行動につき虚偽を交えた供述をした動機について述べるところも、あながち首肯できないものではなく、被告人の検察官に対する前記供述調書の記載が、深夜一一時過ぎころ、中央大学新聞の事務所に女子事務員だけがいた旨、やや不自然な内容を含むことをも考慮すると、右供述調書の記載をもつて以上のような証拠関係を左右することはできない。
それ故、三月一三日夜、さほど遅くない時間帯に、被告人が駒込を去つて中野の所よし子方に赴き、真夜中すぎまで留つたのち新宿で宿泊した旨の被告人の弁解を否定することは困難である。そして、この事実が原判示の内容をなす三月一三日午後九時から一一時にかけての協議の存在と抵触するものであることは多言を要しない。
(8) 原判決は、さきにも触れたように、三月一三日及び一四日に塩見、田宮、小西及び被告人による協議があつたことを判示するのみで、三月一三日に四名が一堂に会したとか、共謀が同日午後九時から一一時にかけて成立したとかの認定をしているわけではないけれども、その実質的内容をなすと解すべき被告人の検察官に対する供述が、右のように証拠及び証拠上認められる事実と抵触し、かえつて三月一三日に協議はなかつたとする被告人の原審及び当審の公判廷における各供述がこれらによつて裏付けられる以上、右原判示には合理的な疑いを容れる余地があるといわざるをえず、前記の「白鳥」元従業員中島孝志の検察官に対する供述調書は、三月中旬に塩見と思われる人物が「白鳥」に長時間滞留したことを内容とするだけであるから、そのころ、塩見が同店をしばしば利用したことが窺われる本件において、これをもつて三月一三日に原判示の協議が行われたことの確証とすることができないことはいうまでもなく、他に原判示を正当とすべき的確な証拠もないから、これをそのまま維持することはできず、原判決には、この点において事実誤認があるとしなければならない。
(二) 協議の実在とその日時(一二日夜の協議)
(1) 以上のとおり、三月一三日夜の「白鳥」における塩見、田宮、小西及び被告人による協議は、証拠上これを認めることができないのであるが、被告人の供述した協議の状況及び内容は、さきに(一)の(3)において原判示共謀の実質上の内容として摘記したところからも窺われるように、具体的かつ如実詳細であつて、すこぶる迫真性に富み、前後数次にわたる供述がいずれもほぼ一貫しているばかりでなく、実行方法に関する協議内容は、被告人が直接知るはずのない、後日における実行状況ともよく符合しており、この協議を全く架空のものとすることはまことに困難であり、むしろ、日時の点を別とすれば、右のような協議が実在したとして然るべきもののように思われる。
さらに、後述するとおり、三月一四日にも、全員が終始一座に集つたかどうかは別として、右四名による本件犯行に関する協議(上原敦男の千歳空港調査結果の検討などを中心とするもの)のあつたことが認められるところ、被告人の検察官に対する供述は、この一四日における協議の存在のほか、これとは別に、これに先き立つ「白鳥」における協議(以下、これを「第一次協議」ということがある。)の存することを内容としており、塩見の検察官に対する供述調書もまた、三月一四日の協議より前における被告人、田宮、小西らとの本件に関する詳細な協議の存在に関する供述を含んでいるのであつて、結局、被告人のいう三月一三日の協議なるものは実在し、その日時に誤りがあるにとどまるのではないかと解されるのである。そして、後に触れるように、被告人は三月一二日に京都から帰京し、引き続き在京中、三月一五日に逮捕されたことが明らかであるから、一四日より前で、一三日でない日に第一次協議があつたとすれば、それは被告人の上京した一二日でなければならないこととなる。
そこで三月中旬における被告人の行動と、被告人の検察官に対する各供述調書中のこれに関する供述とを、特にその日時の点に留意しつつ対比検討すると、以下に説くとおり、右第一次協議は、三月一三日でなく、一二日に行われたものであることを十分に認めることができるのである。
(2) 被告人の三月中旬における行動の大筋は、一一日まで京都に滞在していたところ、小西からの連絡で活動を中止し、一二日に上京して駒込の「白鳥」で塩見、田宮、小西、上原らと落ち合い、当夜は塩見らと「愛川」に一泊、一三日は駒込付近で過ごしたりしたのち、真夜中過ぎに新宿の簡易旅館にひとりで投宿、一四日は夜まで駒込付近にいて、塩見、田宮と共に田端の原判示八木秀和方に宿泊、一五日にいたつて駒込で逮捕されたということになるのであるが、被告人の原審及び当審の公判廷における各供述を含めて、証拠上、右の経過に疑いは存せず、所論もこれを前提としている。
(3) しかるに、被告人の検察官に対する供述には、右の点に関して変遷があり、その概要は次のとおりである(以下、便宜上、被告人の検察官に対する各供述調書に対し、日付順に、なお同一日付のものについては請求順に、一連番号を付し、「検察官に対する供述調書」を「検面」とし、あわせて作成年月日中、昭和四五年を省略し、月と日のみを数字で表示する。例えば、「第一検面(四・一三)」とあるのは、一連番号が第一である被告人の検察官に対する昭和四五年四月一三日付供述調書を指す。なお、供述内容中の日にちは、特記のないかぎり、いずれも昭和四五年三月のそれである。)。
(ア) 第一検面(四・一三)第七項は、「一三日ころ、塩見の連絡で帰京し、一四日午後四時ころ、塩見と駒込の喫茶店『ルノアール』で会い、フエニツクス作戦に関する打ち合わせをし、塩見は近くの喫茶店『カトレア』、自分は近くの喫茶店『白鳥』で、それぞれ面接、注意事項伝達をし、午後一一時ころ田宮も来て三人で話し合い、同夜は三人で八木方に泊つた。」とする。
(イ) 第二検面(四・一五)第五項は、「一三日ころ上京して要員人選に関係したが、その際『ルノアール』で塩見に会い、人選と注意事項伝達について打ち合わせのうえ、注意事項伝達をした。午後一一時ころ田宮が来て三人で話し合つた。」とする。
(ウ) 第三検面(四・三〇)は、三月一日ころまでの経過についての供述である。
(エ) 第四検面(五・二、三)第一三項以下は、「一二日か一三日の午前一一時過ぎころ、こだまで東京に帰着し、中継点で塩見の居どころと聞いた『ルノアール』に正午ころ着くと、田宮一人がいた。その助言で父に金員を無心する手紙書きなどをし、昼食後『ルノアール』で塩見に会い、その指示で注意事項伝達をしたあと、午後九時から一一時にかけ、『白鳥』で、塩見、田宮、小西と、ハイジヤツクで北鮮へ行く計画について協議し、一一時過ぎ、ひとりで神田の中大新聞の事務所へ行き、その夜は新宿の簡易旅館に泊つた。」とする。
(オ) 第五検面(五・四)は、本件関係者らの顔写真についての供述であつて、被告人の行動についての供述を含まない。
(カ) 第六検面(五・四)第二項には、「一三日夜、『白鳥』で、塩見から、田宮、小西同席のもとに、はつきりと、ハイジヤツクによる北鮮行きの計画を聞いた。ノートをひろげての説明があつた。」旨の供述がある。
(キ) 第七検面(五・六)第七項には、「一三日ころ上京し、午後九時ころ、『白鳥』で塩見からハイジヤツクで北鮮に行く話を聞いた。塩見はノートを見せながら説明した。小西もいて意見を述べた。飛行機の内部の状況について具体的説明を聞いたのは一四日夜と思う。」旨の供述がある。
(ク) 第八検面(五・九)第二項には、「ハイジヤツクに関する具体的な話を聞いたのは、一二、三日ころ、関西から帰京したのちである。一三日の正午前、『ルノアール』で田宮の助言により金員を無心する手紙を書いたとき、塩見もそばにいて自分も実家に電話したといつていた。」とあり、同第三項には、「塩見からハイジヤツクについて概略の説明を聞いたのは、一三日夜、『白鳥』においてである。一四日夜にも塩見から『白鳥』で説明を聞いており、最初の日にどこまで聞いたか、はつきりとは区別できない。塩見は(押収されている)ノートを卓上にひろげて説明した。」とある。
(ケ) 第九検面(五・一一)第三項は、「ハイジヤツクで北鮮に行かなければならないと腹を決めたのは、一三日夜、『白鳥』で塩見から計画を聞いた時である。田宮、小西も意見を述べた。」とする。
(コ) 第一〇検面(五・一二)第四項には、「派遣要員は塩見が面接して決意を確かめるとのことであつた。一三日の面接の結果、四名が合格した。」旨の記載がある。
(サ) 第一一検面(五・一三)は、冒頭において、「これまで、塩見や自分のことはやむをえないが、川島宏や物江克男などはできるだけかばいたく、また現金強奪計画などは隠したいと思い、その範囲で話して来たが、結局つじつまがあわないし、赤軍派も出直すべき時期であり、自分もこれと縁を切つていつさい運動も行わない気持なのでありのままを話す。従来述べたことと日時、順序が多少食い違うと思う。これからの話も、日時等が若干不明確であるが、現在の記憶に基づいて、できるだけ正確に申しあげる。」旨前置きして、昭和四五年二月一九日以降の経過につき逐一供述したうえ、同年三月中旬の行動に関し、第一八項で、一一日に小西から帰京するようにとの連絡があつたこと、第一九項で、一二日午前一一時三〇分ころ京都を出発し、複雑な経路を辿つて午後六時か七時ころ東京都内(自由ケ丘)に着いたことをそれぞれ述べ、第二〇項に、「午後一〇時三〇分ころ『白鳥』に着くと、塩見、田宮、小西、上原、物江がひとつのテーブルをかこんで相談中だつたのでハイジヤツクの打ち合わせと思つた。小西の友人もいた。卓上に塩見がノートをひろげていたように思う。一〇分くらいで相談は終り、当夜は物江を除き、一同で『愛川』に行つたが程なく塩見は妻の電話で出て行き、他の者だけが宿泊した。」旨、第二一項に「一三日は田宮と午前一一時ころ『ルノアール』に行き無心に手紙を書いた。」旨、第二二項に「塩見も『ルノアール』に来て同人から面接の手伝を命ぜられた。」旨、第二三項に「塩見からハイジヤツクの話を聞いたのは一三日夜『白鳥』においてである。一四日は夜一一時過ぎまで『白鳥』にいて、塩見、田宮と自分は八木方に行つた。」旨の各供述記載がある。
(シ) 第一二検面(五・一四)第一二項は、「一二日午前中に京都を出発して夕方東京に着き、駒込の喫茶店で塩見に会い、『愛川』に泊り、一三日は『ルノアール』や『白鳥』にいて夜は新宿の簡易旅館に泊り、一四日も『ルノアール』や『白鳥』にいて午後一一時過ぎころ八木方に泊めてもらい、一五日逮捕された」旨の概括的記載である。
(ス) 第一三検面(五・二九)は、芝浦会館での会合と、青楓チエーン青砥店襲撃計画に関する供述のみである。
(セ) 第一四検面(六・八)は、第五項において、「一二日夜上京してからのことはこれまで述べたとおり」との趣旨の記載があるにとどまる。
(4) 右によれば、第一検面(四・一三)以降、第一〇検面(五・一三)にいたるまで、被告人は、一二日に帰京して「白鳥」で塩見らと会い、同夜連れ立つて「愛川」に投宿した事実について全く触れることなく、帰京後の行動については、すべて一三日もしくは一四日以降のこととして述べていること(一二日か一三日に帰京したとする第四検面も、一三日の行動を述べるのみである。)、その間、第一次協議に相当する塩見らとの会合は、要するに、上京当夜、少なくとも上京後最初に塩見に会つた日のこととして供述されていること、第一一検面(五・一三)においてはじめて被告人は態度をあらため、一二日に帰京した事実のほか、「白鳥」での会合や「愛川」での宿泊について供述したものの、第一次協議については従前の供述を援用して、これが一三日に行われた旨を述べるにとどまつたこと、以後、もはや第一次協議に関して実質的内容を有する供述はないこと、などが知られる。
なお、第一一検面(五・一三)における第一次協議に関する供述記載は、「塩見さんからハイジヤツクに関する詳しい話を聞いたのも、これまで述べた通り一三日白鳥においてでした。」というのがその全文であつて、それ以上に、あらためて前後の状況や協議の内容等についての供述はなされていないし、第一二検面(五・一四)における一三日の行動に関する記載は、「翌一三日はルノアールや白鳥に居り、その晩は新宿の簡易旅館に泊り」とあるのがその全部である。
(5) ところで、被告人が、このように、第一検面(四・一三)から第一〇検面(五・一二)にいたるまで、一か月にわたる検察官の取調に対し、三月中旬の帰京後、一五日に逮捕されるまでの行動につき、種々詳細な供述をしながら、一貫して、一二日の帰京、当夜の「白鳥」での会合、「愛川」での宿泊などの事実に触れなかつたのはなぜであろうか。
被告人がこれを失念していたと考えることはまことに困難である。小西からの連絡で関西における活動を中断し、官憲の目を逃れるため複雑な経路を辿つて帰京し、当夜しばらくぶりで赤軍派首脳らと会い、しかも、生まれてはじめていわゆる連れ込み旅館である「愛川」に投宿したというような体験は、被告人にとつても印象深かつたはずである。現に、被告人は、原審第五五回公判廷で、「愛川」に行つた際、「こういう所が世の中にあるんだなあ。」と言つて、塩見から「こういう所はよく知つておかなくちやいけないんだぞ。」と言われた旨を述べている。
従つて、被告人は、一二日に帰京した事実及び当夜の自分の行動について供述することを故意に避けたのであり、それにはそれ相当の理由があつたもの、すなわち、これらの点をあえて秘匿しようとしたものと考えるべきではあるまいか。すでに右第一一検面(五・一三)において認めているにもかかわらず、被告人が、原審における審理の初期(第八回公判)において、なお右「愛川」宿泊の事実を否定し、同旅館には泊つたことがない旨の供述をしていることも、このような推認を支持するものと思われる。
そして、そのことは、三月一二日夜、すなわち被告人の上京当夜、「白鳥」及び「愛川」において、被告人が、真実を検察官に覚知されれば不利益であると考える重要な出来事のあつたことを示唆するものとして差支えないと思われるところ、そのような出来事としては、結局、本件共謀の根幹をなすべき第一次協議しか考えられないのである。
(6) このようにみてくると、一四日の協議と区別される第一次協議に関し、被告人が検察官に対してした各供述のうち、それが一三日に行われたとの点は、取調の当初から第一〇検面(五・一二)作成にいたるまでの間、被告人が、一二日に上京した事実を秘匿していたことに伴う作為的供述であつて、真実に反しており、右各供述は、第一次協議が、真実、一三日に行われたことを意味せず、単に被告人の上京当夜に行われたことを意味するに過ぎないものと解すべきこととなる。そして、本来、上京の日が一二日であることが明らかにされた第一一検面(五・一三)においてその旨の補正がなされるべきであつたところ、当時その点が看過され、同検面においても従前の供述がそのまま維持されたものであり、従つて、第一次協議の日は、これに関する被告人の各検面記載にかかわらず、一二日と認めるべきものであることが判明するのである。
しかも、このことは、塩見の検察官に対する前記五月八日付供述調書において、被告人にノートを見せて計画を説明したという第一次協議の日が「一二、三日」とされていることと抵触しないばかりか、かえつて、同箇所でも、この日が関西に行つていた被告人の帰京した日とされていることに適合し、また、同調書で、塩見が田宮からハイジヤツクによる北朝鮮行きの具体的計画について説明を受けたのは三月一〇日ころであり、塩見はこれをメモ、ノートに記載したとされていることとも、日時の点で矛盾しないのである。
(7) そのうえ、本件の証拠上認められる諸事実のうちには、第一次協議が一三日に行われたとすれば不自然の観を免れないけれども、これが一二日であつたとすれば理解できることとなり、右判示を支持する状況であると認められるものが存在するので、以下、これについて述べる。
(ア) 一二日、「白鳥」における会合ののち、塩見、田宮、被告人らと共に「愛川」に投宿した上原敦男が、塩見ないし田宮から命ぜられ、本件準備の一環として、翌一三日朝出発し、空路千歳空港に赴いて機内及び空港周辺の状況等を調査したうえ、一四日帰京して塩見らにその結果を報告したことは、関係証拠上明らかである。このことに関し、被告人は、第一一検面(五・一三)第二〇項において、一二日夜、「愛川」で上原と同室した際、同人から、「明日千歳空港を調査に行く」と聞いて、「ハイジヤツクを行うにつきその下見をしに行くと思つた」と供述している。これは、この時すでに被告人がハイジヤツク計画について具体的に知つていたのでなければ不自然であり、一二日夜、「白鳥」における第一次協議の存在を示す状況のひとつというべきである。
(イ) 第一一検面(五・一三)第二〇項にはまた、一二日夜、塩見、田宮、被告人らが「愛川」に入つてのち、一五分くらいして、塩見にその妻一子から電話があり、塩見は、「これが最後だ」といつて出て行つた旨の供述記載がある。塩見は、この一二日夜の「愛川」宿泊に関し、原審第三一回公判で証言して、到着後しばらくすると妻から電話があり、子供がかぜか破傷風であるとのことで、私事ではあるが抜けて行き、日暮里の旅館で妻子とともに一夜を過した旨供述し、被告人もまた、原審第五五回公判において、塩見が、「愛川」に入つて間もなく、その妻から電話があり、子供が病気で、行かなくてはならないといつて出て行つた旨供述する。これに対し、塩見の妻一子は、原審第四五回公判において、大要、次のとおり証言する。すなわち、「当日夕方六時ころ、中継点に電話したところ、主人から、日暮里あたりに旅館をとつて入つていてほしいとのことであつたので、九時か九時半ころ旅館に入り、子供をふろに入れてから、一一時ころ『愛川』に電話した。一二時ころ、主人が来た。主人の方から会いたいと言つて来たものである。子供はあと数日で一歳になるところだつた。翌朝子供は保育園に預け、自分は少し遅れたが勤め先の小学校に出勤した。」というのである。
ところで、かぜや破傷風の子供をふろに入れるはずもなく、翌日そのまま保育園に預けることができようとも思えないから、右供述は、塩見の子供が病気ではなかつたことを示すものにほかならず、右のような塩見と一子との連絡の状況をも考えあわせると、塩見が「愛川」を去るにあたり、子供の病気を口にしたのは、仲間と別行動をとるための口実であるに過ぎず、真実は、「これが最後だ」との言葉が示すように、当夜、被告人をまじえての協議で、ハイジヤツク計画が具体化し、決行時期も間近となつたところから、あらかじめ連絡して呼び寄せておいた妻子と最後の名残りを惜しんだものと推認するのが相当である。さらに、塩見が、前記証言に引きつづき、「愛川」宿泊は「一種のだんらん、ひとつの休止状態」であつたと述べているのも、当夜、塩見、田宮、小西のほか、急ぎ関西から呼び戻した前田を加えた赤軍派首脳の間で、本件の根幹をなす協議が成立し、計画が一段落した当時の気分が、ここにはしなくも表現されたものとみて差支えないであろう。
以上のような状況もまた、一二日夜における第一次協議の存在を示す一材料であるというべきである。
(ウ) さらに、一三日午前、被告人が、昭和四三年以降一年半近く仕送りを絶たれていた父治雄に宛て、外国へ行くための資金として送金を求める手紙を書き、投函した事実がある。このことは、その際田宮も同席しており、同人がその実家に宛てて書いた同趣旨の手紙を参考にして書いたものであること及び小西もそのころ実家から五〇万円を入手した模様であることを含め、被告人が、捜査段階ばかりでなく原審公判廷においても認めるところである。また、被告人の第一一検面(五・一三)第二〇項には、塩見が、一二日夜、「愛川」で、被告人に対し、「自分も実家に電話して金を頼んだ。」旨を告げ、被告人も実家に頼んで一〇万円都合するように言つたとの記載がある。無心した金額について、被告人は、原審第五五回公判で単に一〇万円であつたと述べるけれども、被告人の第四検面(五・二、三)第一三項及び第一一検面(五・一三)第二一項によれば、塩見の示唆した一〇万円を調達するため、父から値切られることを考慮し、三〇万円の送金を依頼したとのことであり、被告人の父前田治雄は、原審第三七回公判で、昭和四三年一〇月ころ、被告人が斉藤ますみと結婚して以来、被告人に送金したことはないこと及び昭和四五年三月一四日に被告人のいうような三〇万円送金依頼の手紙が届いたことを証言している。従つて、一二、三日ころ、被告人を含む赤軍派首脳が、いつせいに多額の金員を調達するため特別な努力をしていたことが窺われ、右は単に日常活動資金にも事欠く赤軍派財政の一般的充実を目的とするもので、外国行きは口実に過ぎず、ハイジヤツク資金を得ようとしたものでないとの被告人の弁解は信じ難く、むしろ、これもまた、被告人が手紙を書いた前夜である一二日夜に、被告人をまじえ、第一次協議が行われて、計画が具体化し、決行の時期が切迫していたことを示す一状況であると解すべきものと考えられるのである。
なお、被告人の第八検面(五・九)第二項では、前記塩見発言は、一三日正午少し前、「ルノアール」でなされたことになつているけれども、これは、一二日の上京や、「愛川」宿泊が秘匿されていたため、やむなく一三日の出来事として供述されたもので、第一一検面によつて一二日夜の発言という真実が述べられたものと解すべく、かつ、この事実もまた、一三日のことであるかのごとくされている第一次協議が、実は一二日に行われたものであることを示す一徴憑であるということができよう。
(エ) 関係証拠によれば、一三日には、ハイジヤツク計画実行要員選抜のための塩見による一般党員との面接及びその指示に基づくこれらの者に対する被告人による注意事項の伝達が開始されていることが認められる。
塩見は、原審第三一回公判における証言で、一三日及び一四日に赤軍派メンバー数名と面談した事実を認めつつも、その目的は、赤軍派の路線問題に関する意向聴取等であつた旨弁解するのであるが、同人の検察官に対する五月九日付供述調書第四項、特に、海外脱出意思を確認することを主眼に長征軍メンバー何名かと面接した旨の供述記載のほか、原審証人山田敏夫の証言、なかでも、「一四日夜、『白鳥』で、被告人から『社長が面接をやつている。』と聞き、国際根拠地要員を選抜する面接と理解し、塩見と話をしたが、その際、塩見は、『お前が一番最後だ。』と言つていた。塩見と会つたのはこの時がはじめてである。塩見から、本当に外国へ行く気があるかと問われ、また、玄海灘の藻屑と消えるかも知れないとも言われた。」などの供述に照らし、塩見の右弁解は採用することができない。
また、被告人は、原審第五五回公判で、一三日に吉田金太郎及び岡本武と会つていることのみを認め、かつ、これらの者とも、単に雑談を交わしたのみであるなどと弁解するのであるが、前示塩見面接に関する諸証拠のほか、被告人の第一検面(四・一三)第七項、第二検面(四・一五)第五項、第一一検面(五・一三)第二二項の各供述記載、ことに第四検面(五・二、三)第一四項における塩見が示したという注意事項の内容及び「吉田に『死ぬ覚悟で海外に行けるか。』と聞くと、同人が『行く。』と答えたので注意事項を伝達した」旨の供述記載、同第一五項における「柴田に『カトレア』で注意事項を伝えた」旨の供述記載並びに同第一八項における「一四日に岡本から電話があつた際に、昨日の注意事項を守つて待機してくれと言つておいた」旨の供述記載等に照らして、この弁解は採用し難い。
そして、このこともまた、一二日夜における第一次協議の存在を示す事情であるとしなければならない。
(オ) 被告人の第一一検面(五・一三)第二〇項には、一二日夜帰京して「白鳥」に行つた際、物江が「パイロツトがどうの」とか言つていたので、ハイジヤツクの打ち合わせをしていたのではないかと思つた、との供述記載のほか、「はつきりしない」ものの、「卓上に塩見さんがノートをひろげていたように思う」旨の供述記載が存する。
そして、右のパイロツト云々の点は、物江克男の原審第一六回公判における証言中、同人が、三月九日ころ、京都で、小川某からハイジヤツクに関する教示を受け、外国のパイロツトは合理主義的でやりやすいが、日本のパイロツトはがんばるのでうまく行かないだろうというようなことも聞き、三月一二日夕方東京に帰つて、塩見、田宮のいる喫茶店で小西に報告したという点とよく符合し、ノートの点も信用できるものと認められ、塩見からノートやメモを示されたことはなく、押収されているノートやメモは、取調検察官から見せられてはじめて知つた旨の被告人の原審公判廷における供述は、措信できない。
他面、被告人の第六検面(五・四)第二項、第七検面(五・六)第七項、第八検面(五・九)第三項には、一三日(各検面作成当時、この日が被告人の帰京した日、少なくとも帰京後はじめて塩見に会つた日とされていた。)の夜、「白鳥」で、塩見からノートを示され、かつ、これに基づいてハイジヤツクによる北朝鮮への脱出計画につき説明を受けた旨の供述があるが、いずれも、被告人が塩見からこの計画の説明をはじめて受けた際にノートが示された趣旨、すなわち、第一次協議に際してこのノートが示された趣旨と解せられ、第一次協議においては見せられず、その後別の機会に見せられたとか、はじめてノートを見せられた時には説明がなく、のちにあらためて第一次協議があつたとかの趣旨は窺われない。
ところで、塩見が一五日の逮捕時に所持していたノートが押収され、原審で証拠物として取調べられている(当庁昭和五二年押第三一六号の三七)。このノート及び同時に押収されたメモ合計六枚(同号の三一ないし三六)には、本件ハイジヤツクに関する詳細な計画と認められる多数の記載が存するところ、塩見は、検察官に対する五月七日付(第九項)及び五月八日付(第一項)各供述調書において、これらの記載はほとんど自分が書いたものであると述べ、また、原審第三一、三二回各公判廷において、右ノートは、自分の空想や落書きを書き付けた雑記帳に過ぎず、書いてあることはたわいもないデツサンであるなどと証言している。しかし、その記載の筆跡をみると、記録中に存する塩見の筆跡(原審記録第七冊二〇四七丁)に酷似するものも散見されるけれども、ハイジヤツク関係の記載は、おおむね、これと著しく字体を異にして別人のものであることを窺わせる筆跡をもつてなされているのである。そして、塩見が、自分の使用するノートに、ことさら偽筆を用いるとも思えないから、同人の右供述、証言は措信できず、むしろ、これらの記載は、三月一〇日ころ、八木秀和のアパートで塩見が田宮からハイジヤツク計画につき報告を受け、説明を受けた際などに、田宮その他の者が書いたのではないかとの推認も可能となるのである。また、このようなノートが、押収されているもの以外にも塩見の手許にあつたとは考え難い。それ故、結局、前記各検面にあらわれる「ノート」は、いずれも押収されている右ノートを指すものとするのが相当である。
以上の事実は、前段説示のとおり、一三日夜における協議の存在が認められないことをも考えあわせるときは、前記第六ないし第八検面において一三日夜にあつたとされている第一次協議が、実は前記第一一検面第二〇項にあらわれる一二日夜の「白鳥」における塩見、田宮、小西及び被告人の会合に該当することを示すものにほかならないということができ、これもまた、第一次協議は一二日夜行われたとすべき有力な状況のひとつであるといわなければならない。
なお、右第一一検面第二〇項において、被告人は、右会合につき、自分が「白鳥」に着いたのは午後一〇時半ころで、塩見らの相談は終りかけており、自分が行つてから一〇分くらいで終つた、などと極めて圧縮された形でしか述べていないけれども、このことは、さきにも述べたような、一二日夜の出来事を極力秘匿しようとする被告人の態度がなお残存していたことによるものであり、時間的経過に関する右検面記載は真実を伝えるものではないと解するほかはない。
(カ) そのほか、第四検面(五・二、三)、第六検面(五・四)、第七検面(五・六)及び第九検面(五・一一)には、いずれも一三日夜「白鳥」における被告人をまじえてのハイジヤツク計画に関する最初の協議に際して、小西のいたことが述べられている。しかるに、小西が一三日夜、駒込付近にいたものとは認め難いこと、前述のとおりである。他面、第一一検面(五・一三)における一二日夜の「白鳥」での会合には、小西が加つており、かつ、同人が当夜「愛川」に宿泊したことが供述されているところ、これが当夜の真実に添うものであることは関係証拠上明らかである。このことによつてもまた、前掲各検面にいう一三日夜の「白鳥」における協議とは、実は一二日夜における第一次協議を指すものにほかならないと理解すべきことが知られるのである。
(三) 一三日昼間の協議
以上みたとおり、被告人は、三月一三日夜でなく、一二日の夜、「白鳥」において塩見、田宮、小西と会合し、本件犯行に関する基本的協議(前示第一次協議)を遂げたことが認められるのであるが、そのことは、一三日には本件犯行についての協議がまつたくなかつたことを意味せず、当日朝から、塩見や被告人が駒込を去つたとされる同日夕刻までの間において、なおその協議は引き続きなされていたものとしなければならない。すなわち、関係証拠によれば、被告人は、一三日午前一〇時ころ、「愛川」を田宮と共に出たうえ、「ルノアール」に同行して約二時間を共に過ごし、その間、同人の助言に基づき、父に対し金員を無心する手紙を書いて投函したほか、やがて塩見も来店し、被告人に派遣要員とすべき者らに対する面接の補助並びにこれらの者に対する注意事項の伝達方を指示し、被告人はこれを了承して夕刻まで指示に従う行動をした事実が認められ、原判示も、同日夜の被告人の行動に関する部分を除き、おおむねこれと同趣旨に帰するところ、右事実を本件犯行のための協議の一環として評価できることはもちろん、その間、右三名において、適宜面談してさらに協議を重ねる機会もあつたことが十分に推認されるのである。
塩見及び被告人の右原判示に反する原審公判廷における各弁解が採用できないことは、さきに(二)の(7)の(エ)において説示したとおりである。
2 三月一四日における協議の存否
(1) 所論(第一の三の(一二)及び(一四))はまた、三月一四日における被告人の行動につき、要旨、つぎのように主張して、当日、被告人は、塩見らと原判示のような協議をしていない、という。すなわち、被告人は、その朝、新宿の簡易旅館を出て、付近の喫茶店で若林盛亮から二〇〇円を借りるなどしたが、他に持ち合わせもなく心細いところから、塩見に食事代を貰おうと思い、午後三時ないし四時ころ、中継点に問い合わせて知つた同人の居場所である駒込の原判示喫茶店「ルノアール」に赴き、付近のパチンコ店にいた同人から一〇〇〇円札一枚を貰つてそのまま別れ、食事をすませてのち、五時過ぎに「ルノアール」に戻つたところ、塩見もそこにいた。間もなく「赤軍派の一員である劉世明が逮捕され、台湾国籍の模様なので、強制送還され、死刑になるおそれがある。」との連絡が入り、被告人と塩見とはそのことについて話し合つたが、塩見は「どうしよう。」と思案するばかりであつた。午後六時ころ、佐藤公彦が、劉の逮捕されたのは自分が不用意な行動をして官憲に尾行されたためであるとして、塩見に対し自己批判をするため「ルノアール」に来たので、気の毒に思い、席を外して別の喫茶店に入つていたところ、上原敦男が来たので、同人と路線問題等について語り合つたのち、ひとりでまた別の喫茶店に入り、午後九時か一〇時ころ「白鳥」に行つてみると、塩見と田宮がおり、そこへ午後一〇時半か一一時ころ、北海道から上京した山田敏夫も来て、北海道オルグの際の資料売上金を被告人に渡すなどのこともあつたが、ここでの会話も劉問題の検討に終始した。そして、同夜は泊るべきところの心当たりもないところから、被告人は、塩見、田宮に頼んで、田端の原判示八木秀和方について行き、一緒に宿泊した。従つて、原判示のような本件ハイジヤツクに関する協議などはしていない。ことに協議に加わつたひとりとされている小西は、この日に駒込に来ていないので、同人をまじえての協議はありえない、というのである。
(2) これに対し、原判決は、一四日に、山田敏夫が拳銃調達を断念して札幌から上京し、「ルノアール」で、塩見から、国際根拠地建設のための派遣要員を選抜する面接を受けたこと、上原敦男が一二日に「愛川」で命ぜられたとおり、千歳空港及びボーイング七二七型機の内部状況等についての調査を終えて帰京し、「ルノアール」で塩見にその結果を報告したのち、被告人とともに「白鳥」に赴いて、同所でまもなく来店した田宮にも同様の報告をしたこと、佐藤公彦については、劉の逮捕につき責任をとつて中央委員を辞任する旨の自己批判書を提出したため面接が中止されたこと及び当夜、塩見、田宮、被告人が打ちつれて八木方に投宿したことなどのほか、この日にも、塩見、田宮、小西及び被告人が、本件犯行についての協議をした旨の判示をしている。しかし、被告人の当日の行動については、上原の動きに関連する前示の点及び前示八木方投宿の点を除くほかは触れることなく、また右協議の具体的態様ないしその時期等については、別段判示するところがない。
(3) そこで関係証拠を検討すると、まず、被告人は、原審公判廷で所論にそう供述をするほか、当審公判廷で、「一四日夜九時半か一〇時ころ、白鳥に行くと塩見、田宮がいたが、小西はいなかつた。そこで話したのは劉問題である。山田は一〇時半か一一時ころ来て、拳銃のことや資料売上金のことを話しながら一時間くらいいた。自分たちは、一一時半ころ白鳥を出て八木のアパートへ行つた。小西は、山田がその晩小西も来たというので、来たのかも知れないが、自分は話をしていない。ちらと顔を出す程度の時間しかなかつたと思う。」と述べ、要するに、塩見、田宮、小西及び被告人の四名による協議はこの日には存在せず、かつ、被告人が塩見と話し、あるいは塩見、田宮と同席したことはあつても、その際、本件ハイジヤツク関係の協議をしていない旨強調するのである。
また、塩見は、原審第三一、三二回各公判で証言して、「一四日に山田や佐藤と会つた時に被告人はいなかつた。被告人と話したのは劉世明の問題である。当日小西はいなかつた。田宮は劉奪還の話をするため、ちよつと来ただけである。」などと述べ、被告人同様、一四日における協議を否定し、特に小西の不在を力説している。
しかしながら、佐藤公彦の検察官に対する供述調書、上原敦男の検察官に対する昭和四五年七月六日付供述調書、山田敏夫の原審第一八ないし二〇回公判における証言、石川敬子の検察官に対する供述調書等の関係証拠によれば、佐藤、上原、山田の各行動とその趣旨が原判示のとおりであることを認めるに足り、ことに、当日の会話はすべて劉問題に終始したかのようにいう被告人及び塩見の前示供述の真実性はすこぶる疑わしいとしなければならない。
なお、田宮及び小西は、さきにも触れたとおり、本件で国外に逃亡して取調べを受けておらず、その余の赤軍派関係者で本件取調べの対象となつた高原浩之、物江克男、川島宏、森清高は、いずれも一四日には駒込付近に来ていなかつたもので、一四日の協議に関与したり、目撃したりしていないことが認められる。
つぎに、小西が一四日に「白鳥」に来たかどうかについては、山田敏夫が、原審第一八回公判での証言において、「三月一四日に上京し、その足で午後一〇時ころ駒込の『白鳥』に赴いたところ、前田のほか塩見、田宮もいて、塩見からは『社長面接』を受けたが、それが終つて帰るころ、小西が『白鳥』に来た。自分は前田にあいさつをして帰つた」旨供述し、同人の検察官に対する五月二二日付、二七、八日付各供述調書にも同旨の記載があるほか、被告人の第八検面(五・九)第四項には、「私が小西についてはつきり記憶しているのは、三月一四日の夕方、私が塩見、田宮と一緒に『白鳥』にいたとき、入つて来て、今日海岸で爆弾の実験をして来たが物凄い爆発だつた、と報告したことである。」とあり、第一一検面(五・一三)第二三項にも、「小西は一四日夜、上原より少し早く『白鳥』に来て、塩見、田宮や私に、今日海岸で爆弾の実験をしたけれども物凄い爆発だつたと言つた。」との旨の記載がある。小西は一三日は福島にいた旨の当審証人川島宏の供述も、一四日夜には小西と同行して帰京したというのであるから、同夜小西が「白鳥」に現れたことと矛盾するものではない。そのほか、被告人の第一一検面(五・一三)によれば、一四日夜、被告人が塩見、田宮と共に八木のアパートに赴く際、小西は「保坂病院」に行くと言つて別れたとのことであつて、同病院には赤軍派の同調者のようなもののいることを思わせるところ、このことは、被告人が一三日に父に宛てて出した無心の手紙において、同病院内高田某を送金先に指定した旨の第四検面(五・二、三)第一三項の記載にも適合し、一四日夜の小西の行動に関する右第一一検面記載の真実性を裏付けるものといえる。
さらに、右第一一検面第二三項には、「一四日の午後六時か七時ころ、上原が千歳から戻つて来て、『白鳥』で塩見、田宮、小西らと一緒に千歳空港の様子などについて聞いたように思う。」との記載があり、第七検面(五・六)第七項には「飛行機の内部の状況は上原が調べたのではないか。具体的な説明を聞いたのは三月一四日の夜と思う。」とあり、第八検面(五・九)第三項にも「一四日の夜にも塩見からハイジヤツクについての説明を聞いている。最初の日(前示第一次協議の日、すなわち一二日を指すものと解すべきである。)にどこまで聞いたか、はつきり区別できない。」との趣旨の供述があるほか、被告人の各検面にあらわれた塩見、田宮、小西との協議内容には、上原の報告を織り込んだと認められる空港の状況や航空機内部の状況に関する点があることなどをも考えあわせると、一四日夜、「白鳥」及びその付近の喫茶店で、右四名の間に、本件ハイジヤツク計画に関する協議、ことに上原の調査結果をめぐつての協議があつたことを窺うに足りるのである。もつとも、上原はその検察官に対する七月六日付供述調書第一二項において、「塩見と田宮に対し別個に報告した」旨供述しており、被告人の第八検面(五・九)第三項にも「上原の調査結果は塩見から聞いたような気がする。」とあることなどに照らし、上原の報告を塩見、田宮、小西及び被告人が同一の機会にいつせいに聴取したと断定することは困難であるけれども、そのことは右の判断に消長を来たすものではない。
(4) このようにみてくると、三月一四日における塩見、田宮、小西及び被告人の各行動には、必ずしも明確でない点が残されてはいるものの、同日夜、「白鳥」で、これら四名の者が同座して会談する機会のあつたことが十分に認められるほか、同日昼間においても随時個別的に接触する機会のあつたことも明らかである。その間、所論劉問題が多大の関心を引いたことも窺われるけれども、塩見の原審第三一回公判における証言によれば、同人がただちに強制送還されるものではないことが、その日のうちに判明した由であるほか、同人は単に派遣要員候補者のひとりであるに過ぎず、計画の呈示もなされていなかつたその当時において、同人からの機密漏洩のおそれがあつたはずもなく、右問題が、特命を受け、急ぎ千歳空港まで調査のため往復して来た上原の報告を等閑に付させ、間近に迫つたハイジヤツク計画に関する一二日以来の具体的協議をいつさい中止させるほど重大な事項であつたとはとうてい考えられない。さらに、前示のとおり、小西が、塩見、田宮及び被告人に向つて爆弾実験の結果を報告したこともまた本件協議の一環として理解すべきことも多言を要しない。結局、一四日においても、上原報告や、小西報告の検討を含め、本件ハイジヤツク計画、特にその具体的細目に関する協議の存在を認めるほかはないのである。
3 結び
以上のしだいで、原判決挙示の各証拠を正当に評価すれば、被告人が塩見、田宮及び小西と本件犯行につき協議をしたのは昭和四五年三月一三日及び一四日の両日であるとする原判示は誤りであつて、そのまま維持することはできず、正しくは、同月一二日以降一四日にかけてしたものと認めるべきであるから、原判決にはこの点において事実誤認があるとしなければならない。
しかしながら、右日時の点を別とすれば、原判示「白鳥」等において、塩見、田宮、小西及び被告人の間で、原判示のような内容の協議が行われたものとし、かつ、これをもつて本件犯行についての共謀と認定した原判決の判断は、正当として支持するに足り、従つて、被告人は、右共謀に基づき、いずれにせよ共謀共同正犯として、本件犯行について刑事責任を負うべきものであることは、いうまでもなく、前記誤認は、被告人の所為についての構成要件的評価はもちろん、違法性、責任性及び犯情にも、なんらの差異を生じない。さらに、共謀の点に関する本件公訴事実の記載は、「被告人は、塩見孝也、田宮高麿、小西隆祐ら十数名と共謀のうえ」というものであり、これにつき、検察官は、原審第一回公判において、「共謀の日時は昭和四五年一月七日ころから犯行時までであり、同年三月一五日以降は順次共謀である。」旨釈明し、同第二回公判において、「(被告人らの間に)昭和四五年三月一二日から同月一四日までの間に『白鳥』などにおいて具体的謀議が成立した」旨の冒頭陳述をしている審理経過にかんがみ、共謀の日時に関する前記誤認が犯罪の同一性に消長を来たすものでもない。それ故、原判決の事実誤認は、判決に影響を及ぼすものでないことが明らかであつて、結局、この点の所論は採用のかぎりでない。
二 その余の論点について
所論のうち、右一において判断を加えた点を除くその余の論点は、いずれも、原判決が「本件犯行に至る経緯」として判示する諸事実の一部を論難し、あわせて被告人の思想ないし役割に言及して、判示のような諸事実は存在せず、もしくはその意味を異にし、あるいは被告人においてその存在ないし内容を認識していないものであつて、このような点を正しく理解すれば、被告人が本件犯行を共謀していないことが明らかであるのに、原判決は、証拠評価を誤り、捜査官に対する被告人及び関係者らの各供述など、証明力の乏しい証拠に依拠して真実に反する事実を認定し、これらに基づいて被告人が本件犯行の共謀に加つているものと誤認した、というのである。
そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、原判決の挙示する証拠によつて、所論指摘の原判示各部分に添う諸事実は十分に認められ、原審が関係証拠の証明力につきその評価を誤つた形跡はなんら窺われず、原判決に所論のような瑕疵の存することを疑うに足りない。所論の縷述するところは、原判決を正解せず、関係証拠に照らして信用することのできない被告人及び関係者らの原審公判廷における供述をすべて真実であるとし、もしくは証拠の一部のみを援用して総合的見地を没却するなど、結局、その前提を誤り、独自の見解に立脚し、証拠を正当に評価しないものであつて、すべて採用することができない。
念のため、主要な点について若干の説明を加える。
(なお、所論中には、原判決の挙示する証拠の証明力を論ずるにあたり、あわせて証拠能力をも云々する点が散見されるけれども、各証拠の証拠能力については、すでに前示「第一 訴訟手続の法令違反の主張について」において、これを肯定すべき旨の判断を加えているので、ここではあらためて触れない。)
1 所論(一)の(1)(2)は、昭和四五年一月七日から翌八日にかけて、赤坂東急ホテルの一室で赤軍派中央委員会が開かれた旨の原判示について、右会合の出席者中には、中央委員でない者が何人か含まれており、中央委員会として招集されたものでなく、またその実態も、中央委員会と呼べるほどの内容を備えていなかつたし、出席した被告人自身、中央委員ではなかつた、という。
関係証拠によれば、赤軍派の最高機関である総会が、昭和四四年八月下旬の結成総会以来、開催されたことがなく、従つて中央委員を正式に選出する機会もなく、その後に参加した被告人も、もとより正式に中央委員に選任されたものでないこと、所論のとおりである。
しかし、元来、塩見を中心とし、非合法活動を目指す徒党に過ぎない赤軍派が、形式的に完備した機構を有していたはずもなく、原審第三七回公判においてみずから証言するように、衆愚政治はとらないとする塩見のもとで、組織の民主的運営が行われるわけでもない。ことに、昭和四四年秋の原判示大菩薩峠事件により、有力メンバーが多数検挙されてからは、そのままでは組織運営にも支障を生ずるところから、塩見の指名により、適当な残存メンバーを中央委員クラスあるいは中央委員扱いなどと称して、方針決定に参画させていたことが認められ、昭和四五年一月上旬における右中央委員会に、総会選出にかかる正規の中央委員でない者が少なからず出席していたことは、なんら怪しむに足りない。そして、右会合が「中央委員会」にほかならないことは、昭和四四年一〇月末以降、中央委員として取扱われ、むしろ自他共に正規の中央委員の一人と目されていた佐藤公彦が、原審第一二回公判において、被告人自身の尋問に対し、明確に、これを「中央委員会と理解し、記憶している。」旨、証言していることのほか、塩見(五月七日付、第二項)、佐藤(第一〇項)、上原(七月五日付、第三項)、森(第三項)、物江(六月一八日付、第一一項)の検察官に対する各供述調書並びに被告人の前記第三(第一〇項)、第四(第二項)、第六(第一項)、第一〇(第一項)各検面によつて明らかであり、また、その会議の内容が、原判示のとおり、同年度における闘争方針、組織機構の改正、当面の具体的活動の方法と任務分担の決定等、中央委員会の名にふさわしい重要事項を含んでいたことも、右各証拠によつて十分に認めることができる。被告人が右会合の当時、すでに中央委員クラスの重要メンバーであつたことは、原審第一五回公判において、森清高が「当時、肩書などはつきりしない点があり、自分もはいつたばかりではあつたが中央委員会に出席することができ、被告人も、活動歴からいえば先輩であるが、同様中央委員クラスであつた。」旨の証言を繰返していることのほか、前掲各証拠によつて、これまた十分に知ることができるのである。
所論の援用する「指導部クラスというのは中央委員レベルの者をいう」との趣旨の塩見の原審第三七回公判における証言は、同人が、キユーバ情勢に関する小俣書簡を被告人に示したことに関し、同書簡を示した者の範囲を問われて「指導部クラスの者に示した。」と答えた際の発言であるから、所論とは逆に、むしろ被告人が指導部クラス、すなわち中央委員レベルのひとりであることを意味していると解すべきものである。
さらに、森清高が、原審第一四回公判で、地区代表者会議があるから来るようにとの連絡で前記会合に赴いた旨の証言をしていることは所論のとおりであるけれども、これは、外部に対する機密保持の目的から用いられた名目に過ぎず、真実は、原判示どおり、中央委員会が開催されたものであることが、右証言に引きつづき、「行つてから中央委員会であると知らされた。」旨供述されていることからも明白である。
所論は、採ることができない。
2 所論(一)の(3)はまた、「右中央委員会において、国際委員会のもとに長征軍を設置し、将来、その隊員のうちから国外派遣要員を選定することとなつた。」旨の原判示について、「長征軍」とは、日本委員会の下部組織である中央人民組織委員会のさらに下部組織である全国組織委員会の俗称であり、国際委員会とは組織上の関係がなく、そのメンバーの中からハイジヤツク要員を選定するようなこともありえないという。
しかし、右1で掲げた各証拠によれば、右会合において、ひとつの「軍」を組織することが決定され、命名の縁由はともあれ、これが「長征軍」と呼ばれたこと、その構成員は、他事件により逮捕状が出されていると思われる者、あるいは東大事件で裁判中で、保釈になつているものの実刑言渡の予想される者などであり、従つて、逮捕歴もなく、公然面の活動の可能なメンバーによつて構成され、日本委員会の本来の下部機構である中央人民組織委員会や関東地方組織委員会などとは異質のものであつたこと、「長征軍」は、当面、日本委員会の統括のもとに全国オルグをすることを主たる任務としていたため、その所属につき、メンバーの間で、正しい理解を持たない者もあつたけれども、その本来の使命は、国際根拠地設定のための国外脱出にあり、かつ、その要員選定の母体であつて、性質上、隊長たる被告人の検面記載のとおり、国際委員会に所属するものであつたことなどが認められ、さらに、田宮及び小西の指揮のもとに本件の実行行為に加わつた七名のうち、少なくとも五名(田中義三、岡本武、若林盛亮、安部公博及び吉田金太郎)が長征軍のメンバーであつたことが、当審公判廷における被告人の供述によつて明らかである事実をも考えあわせるときは、原判示を正当とすべく、所論は失当である。
なお、塩見の検察官に対する前記五月七日付供述調書第二項において、同人は、「のちに長征軍と呼ばれるようになつた第一次軍」との趣旨の表現を用いているので、昭和四五年一月一〇日ころの赤坂東急ホテルにおける中央委員会の際から「長征軍」の名称が用いられたものか否かは判然しない点があるが、佐藤公彦の原審第一二回公判における証言によれば、同月下旬の北九州オルグに際し、すでにこの名称が用いられていたことを認めるに足りる。
3 さらに所論(一)の(4)のうちには、赤坂東急ホテルにおける右会合で、被告人はほとんど終始眠つていたため会議の具体的内容を知らず、後日田宮から告げられた被告人の任務は、三月下旬の革命戦線結成大会に向けて、全国オルグを担当することだけであつたとする点があり、これに添うような被告人の原審公判廷における供述や、原審証人塩見及び同川島の各証言などもあるけれども、関係証拠、なかでも被告人の前記各検面の記載及びこれによつて知られる被告人のその後の活動状況に照らし、右供述、証言は措信するに足りない。所論は採用のかぎりでない。
4 所論(三)及び(七)には、一月一〇日過ぎの世田谷アジトにおける調査委員会会議の開催及び三月七日から九日ころにいたる上原、川島、物江、田宮、塩見の動静に関する原判示につき、被告人は右会議に出席しておらず、また、三月四日以降一二日の帰京までは京都にいて、右の者らの行動を知る由もなく、しかも、右のようなことについては後日にも誰からも聞かされていないのに、原判決は、あたかも被告人がこれらのことを知悉しているかのごとく判示して、被告人の共謀の存在を色づけしようとしているとする点がある。しかし、右判示は、本件犯行に至る経緯の一環として、本件ハイジヤツク計画の全体としての形成及び進行の過程を叙述するものに過ぎず、もとより被告人がこれらの点を知つていたとするものではないことは、被告人逮捕後、犯行の実行にいたるまでの事実摘示と同断である。所論は失当である。
5 所論(八)には、一二日夜、「愛川」において、上原に対し、千歳空港及びボーイング七二七型機の内部の状況等について調査すべき旨の指示がなされたとの原判示について、当夜、一行の中には、部外者である小西の友人の東大生も居たのであるから、このような者のいるところで、そのような指示がなされるはずがないとする点がある。しかし、右東大生なる者は、当夜「白鳥」における第一次協議にも同席しており、翌一三日には上原と同道して千歳空港まで空路往復しているのであつて、一味もしくは同調者その他この者から秘密事項が少なくとも官憲に洩れるおそれはないとされていた者と考えるほかはなく、従つてその存在が右指示のなされたことを認定する妨げとなるものではない。それは、物江克男が、その検察官に対する昭和四五年六月一八日付供述調書第二一項において述べる事実、すなわち同人が京都に赴き、小川某からハイジヤツクの方法等について教示を受けた際、赤軍派と関係のない紹介者小田某も同席し、耳を傾けていたことと同様の事態と解することができる。所論は採用できない。
6 所論(一四)中には、三月一五日朝、前夜被告人及び塩見と共に八木秀和方に宿泊した田宮が、他の二人より先に八木方から出たことを指摘して、これは、当日、塩見及び被告人においてなお参加要員選定のための面接を行う予定であつたとする原判示が誤つている証左であるとする点がある。しかし、関係証拠によれば、元来、田宮はこの当時要員面接には直接携つていなかつたことが窺われるほか、原審証人八木秀和は、原審第一三回公判において、いつたん三人とも出て行つたあと、田宮が「塩見はいないか。」といつて立ち戻り、「自分だけ先に出たが来ないから探しに来た。」と言つた旨供述しており、これによれば田宮も、一足先に出たものの、間もなく合流するつもりであつたことが知られるので、所論はいずれにせよ失当である。
7 所論(一四)はまた、原審証人山田敏夫の「本件ハイジヤツクの目的地として北鮮が選ばれた理由がよくわからない。最高幹部が逮捕されたあとの組織建直しのため、ハイジヤツク自体が目的になつた面もあつたのではないか。」との趣旨の供述を指摘して、塩見及び被告人の逮捕前にはハイジヤツクの具体的計画がなく、逮捕後になつて田宮らが焦慮し、計画を具体化したものであるとする。しかし、山田の赤軍派内における地位は、単なる一「兵士」であるに過ぎず、塩見と会つたのも、三月一四日夜における「社長面接」がはじめてのことであつて、それまでに行われた上層部の会合にも出席していないのであるから、幹部級の者たちの間における計画の進捗状態等をつまびらかにしておらず、右のような感想を持つこともやむをえないところではあるけれども、それは決して真実を反映するものではない。関係証拠によれば、原判示のとおり、塩見及び被告人の逮捕前に、最終的にはキユーバに渡ることを希求しながらも、現実にはまず北鮮に赴く旨の具体的計画が樹立され、実行方法の大綱も決定されていたことが明らかであり、やや地位の高い上原敦男のように、すでに二月下旬ころ、塩見から計画を聞き、キユーバならともかく、北鮮に行くことは納得がいかないとして、内心、計画参加をためらい始めていた者もあつたことが認められる(同人の検察官に対する七月五日付供述調書第七項)のであつて、所論のように、本件犯行が、田宮らの独断による別個の計画に基づくものであるとすることはとうていできない。この点の所論も採用のかぎりでない。
8 所論(七)は、被告人の思想ないし理論的立場を論述して、被告人が本件犯行に加わるはずのないことを主張する。
しかし、上来説示したところにより、原判決が、被告人は、本件犯行につき、共犯者らとの間において、共謀共同正犯としての罪責を負うべきものとするに足りる程度の共謀を遂げていたものとした事実認定に誤りはなく、これを正当として支持すべきものであることが明らかである。被告人の前記第九検面に存する「できれば行きたくなかつたが、塩見、田宮の最高幹部がみずから行くといつているので、長征軍隊長であつた立場上、引きさがるわけにもいかず、行く気持になつた。」旨の供述記載は、当時の被告人の心境を率直に反映するものと考えられ、被告人が、田宮や小西に比べて比較的消極的態度が強かつたことは窺えるものの、そのことは、被告人が本件共謀に加わつていた事実を左右するものではない。この所論も採用できない。
(なお、被告人は、当審公判廷で、本件実行の以前に、弁護人を通じ、赤軍派の事務所に対して、同派離脱の意思を表明したから、本件犯行につき被告人と他の者との間に共謀が成立していたか否かにかかわらず、自己は本件犯行と無関係である旨供述するので付言すると、明示黙示を問わず、自己の意思に基づいて、共謀関係からの離脱の意向を共犯者らに表明し、共犯者らからも諒承を得たような場合や、これと同視できるような場合などならば格別、被告人は、実行行為に出るべき決意を抱いて共謀に加わり、そのために活動中、はからずも官憲に逮捕されたため、実行行為に参加できなかつたにとどまるものであつて、あたかも、実行行為に出るべく犯行予定現場に赴く途中、交通事故のため参加できなくなり、あるいは到着が遅延して、その時には犯行が終了してしまつていたような場合と同様、共謀共同正犯としての責を負うべきことは勿論である。また、赤軍派のメンバーでなくなることと、共謀関係にとどまることが論理的に両立しえないわけではないから、一方的に赤軍派からの脱退の意思を表明することと、共謀関係からの離脱とを同一視することもできない。)
三 結論
以上のとおり、原判決に事実誤認の瑕疵があるとする所論はすべて採用のかぎりでない。論旨は理由がない。
第三 量刑不当の主張(控訴趣意書第一章第二)について
所論は、要するに、被告人を懲役一〇年に処した原判決の量刑は重きに失して不当である、というのである。
そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、本件は、原判決判示のとおり、被告人が、塩見、田宮及び小西と共謀し、さらに高原ほか七名の者とも順次共謀したうえ、被告人、塩見、高原を除くその余の九名において、日本航空定期旅客機「よど」号を乗つ取り、乗員及び乗客多数を人質にして、朝鮮民主主義人民共和国ピヨンヤン郊外美林飛行場にいたり、国外脱出の目的を遂げた事案であつて、その動機は、被告人も所属する共産主義者同盟赤軍派が政治的目標と称する世界同時革命などの空想的かつ奇矯な目的を、非合法的手段により短絡的に実現しようとするにあり、なんら酌量に値せず、その態様は、長期にわたる綿密な準備のうえで決行された計画的犯行であるほか、実行にあたり、不法な目的の実現のため手段を選ばず、飛行中の航空機を制圧強取して外国に向かわせ、なんの罪もない一般市民である乗員及び乗客多数に対し、執拗に強度の暴行脅迫を加えてその自由を奪い、深刻な不安に陥れ、一部の者には危害すら及ぼし、ひいて我が国のみならず近隣諸国の秩序と平穏をも大きく侵害する結果となつており、犯情極めて悪質である。しかも、その間、被告人の果たした役割は、決して小さいものではなく、たまたま決行に先き立つて別件で逮捕されたため、みずから実行行為をするにいたらなかつたものの、そのことさえなければ、当然実行者のひとりとして活躍することを予定していたものであり、共謀共同正犯として、その責任はきびしく追及されなければならない。
また、被告人は、原判示のとおりの前科前歴を有し、当時、特に身をつつしまねばならなかつたのに、あえて本件所為に出たことも軽視することはできない。
もつとも、「よど」号機長をはじめとする乗員ならびに乗客一同の冷静沈着かつ適切な対応に加え、わが国における官民諸機関の努力や、関係諸国の公私の機関から、人道的見地に基づいて寄せられた協力の結果、本件が、人命を損い、重大な傷害が加えられるなど、取り返しがつかない悲惨な事態に立ち至ることなく終つたのは、不幸中の幸というべく、被告人がこのことになんらの貢献をもしたわけではないことはいうまでもないことながら、なおこれを被告人にとつて有利な情状とすることを妨げないほか、所論が被告人のため参酌することのできる事情として述べるところも、記録上、これを認めるに足りる。
しかし、原判決は、「量刑の事情」として判示するとおり、右のような被告人に有利とすべき諸点をも十分に考慮して、被告人を懲役一〇年に処したものであつて、その量刑は、原判決時を基準とするかぎり、なんら過重不当というにあたらない。論旨は理由がない。
しかしながら、当審で許可した再保釈後における被告人の生活状態、家庭の状況のほか、被告人が、当審においてあらためて、「本件当時は底の浅い哲学や幅の狭い政治的感覚で行動したもので誤りであつた。赤軍派関係者とは、本件で証人となつてもらうについての接触以外、一切の関係を絶つている。」旨述べて、改悛の情をさらに深めていると見られることなど、一切の事情を考えあわせると、現段階においては、犯した罪のつぐないをしたうえ、一日も早い社会復帰と更生を可能ならしめるため、刑期を若干軽減することが相当であり、原判決の量刑をそのまま維持することは明らかに正義に反するものと認められる。
そこで刑訴法三九七条二項によつて原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、被告事件について、さらに判決する。
原判決の認定した事実(ただし、「本件犯行に至る経緯」中、一三丁表七行目に「一三日および一四日の両日にわたり」とあるのを「一二日から一四日にかけて」と、「罪となる事実」中、冒頭一七丁表七及び八行目に「被告人は、前記のとおり、昭和四五年三月一三日および翌一四日」とあるのを、「被告人は、前記のとおり、昭和四五年三月一二日から同月一四日にかけて」とそれぞれ訂正する。)にその挙示する法条を適用した刑期範囲内で、被告人を懲役八年に処し、刑法二一条により、原審における未決勾留日数中九〇〇日を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項本文を適用して、全部被告人に負担させることとする。
よつて主文のとおり判決する。